ということで、こんばんは。
上の図は、ごく一般的な「見守り」の「かたち」です。
種類を問わず「障がい者」を見守る例でもあり、お子さんの発達・発育を見守る例だと思ってください。認知症初期の高齢者の見守りにも有効だと思います。
ただ、これで上手くいかないこともあります。
目標に届かず。
何かを目標に進み続けて、途中でやめてしまう。
※「止めて」「辞めて」でもなく、「悩み」「納得感がない」「惑い」からの「やめる」です。
健常者の方々(見守る側)の言葉に、たまに残念なことがありました。
※私の経験なので過去形です。
「そこまでやって勿体ないよ。そこでやめちゃうの?」
これ、確実に成し遂げる力がある人にかける言葉なんですよ。
行動している・練習している本人に軽々しくかける言葉、ではない時があります。
とくに障がいを持っている、その疑いがある人には・・あまり、かけて欲しくない。
「やめる=悪い」「できない=自分を否定されている」ような感覚に陥るんですね。
その分、「次もやってみよう」な気持ちは、小さくなります。
まず
「ここまで、できたんだね。すごいね。」
と「ここまで、できた。」という達成感を持たせてみる。
それで「今日は、ここまで。次は、もっとできるかもね。」
これでいいんです。
「未達の部分が、なぜできないのか?」と見守る側は思っても、言葉にしてはいけない。
見守る側も「教え方がいけなかった?」とか、いろいろ考えてしまいがちになる。
これでは、「共倒れ」です。
「なぜ、できないの?」は「なぜ、そこで怒るの?」になります。
できない理由を訊くのは、「今」じゃなくていいんです。
全部できてから、訊いてもいい。
これも「言葉をかける順番」があります。
「できたね。おめでとう。いろいろあったけど、できたねぇ。すごいねぇ。」
しばらく経ってから、本人に理由を訊きます。
「なんか、迷ってた?わからなくなっちゃったのかなぁ?」
この時に、本人は行動を達成してるのですから、「できなかった理由」を話すのに掛かるストレスは「できなかった時点」より軽くなります。話しやすくなる。
ここからは私たち夫婦の話しになりますが。
これは、このブログで初めて書くことになります。
以前の妻は「自我」を持たない人でした。
「自我」がなかったのは、幼少期から成人(18歳くらい?)までの妻の周りの環境が原因だった。褒められたことがあまりなかった。「怒られる=恐怖だった」。これは妻本人から聞きました。
なので。
「できなかったら、一緒にやろう。」
から始まりました。
今までなら、いつも妻は私の後ろか、並んで歩いてました。
でも、銚子への小旅行の時から変わったんですね。
私と並んで歩くか、私より少し前を歩くようになった。
小旅行から帰ってきて、妻に訊いてみました。
少しは自信もってるようになった?
「なったよ-。」
夫婦で障がい者ということも、あるんでしょうけど。
こういうこともあります。
※長々とすみません。苦笑