時の満ち引くままに

俗称:障がい者夫婦。上手くやれるわけないと否定された世の中を、なんとか、かんとか生きています。

JR化後の努力と失敗==JR九州 交流特急型電車783系==

1987年(昭和62年)4月1日。

日本国有鉄道を分割民営化した「JR」が事業をスタート。

旅客6社(JR北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州)と貨物1社(JR貨物)。

※関連事業団体を含めると計12社になります。

 

JR化後の初のダイヤ改正、1988年(昭和63年)3月。

JR九州に交流特急型電車783系(通称:ハイパーサルーン)が登場。

JR九州783系 更新車(ハウステンボスカラー)クロ782(Tsc’)

この頃には日本全国で高速道路の基礎調査・開通・延伸が始まっており、鉄道の対抗馬は「高速道路網(トラック・バス・自家用車)」や「飛行機」、「大規模私鉄各社」。

特に九州は福岡(博多・天神・福岡空港など)を中心に高速バスvs鉄道の競争が激しくなっており、安さ・利便性では高速バスに軍配が上がっていたように思う。

運行間隔は路線によって10~15分間隔、車両はトイレ付き、座席はリクライニングシート。特急列車より所要時間は長いが、各都市の中心部や駅前まで「着席できて、安く快適に移動できる」が高速バスの最大の魅力だった。

高速バスの利点は、車両1台あたりの定員は鉄道に比べて少ないものの、多客時には増車が容易に出来た点。多客時に専用車が足りなければ、余剰車・貸切車を充てて1便あたりのバスの台数が10台を超えた例(福岡ー大阪線 ムーンライト号 運行会社:西鉄バス・阪急バスなど)が多数あった。

 

この783系は「交流特急型電車」とあるように、九州内での運用に限定しており隣接するJR西日本管内への乗り入れを前提にしていない。

門司駅構内の下関寄りからは直流電化のため、直流電装搭載が必要です。つまり、交直両用。

また客室設計は国鉄の特急型車両を基本としておらず、車体の中央部にデッキ・乗降扉を備え、1両を2室に別けた上で1室を「指定席」、1室を「自由席」にして運用することも想定していたような感じ。

中間車(1次車)については日立製作所設計・製造で、一部はJR九州(小倉工場)が車体艤装(設備取り付けなど)を行った。

空調装置についても国鉄の特急型車両を基本としておらず、車体床下にヒートポンプ式空調装置(形式:AU400K)を搭載。登場当初は屋根上に空調装置がなかった。

当時の設計性能は最高速度130km。デザイン上の見た目、空力抵抗の低減を目的に屋根上に空調装置を積まなかった、という説がある。

ただ、車体をステンレス製にしたのは「国鉄近郊型211系をベースに考えたもの(日立評論より)」とされているため、JR化以前に発想はあったのかも知れない。

日立製作所 日立評論1988年7月号より

日立製作所 日立評論 1988年7月号(リンク先)

https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1988/07/1988_07_02.pdf

 

しかし、空調装置を床下に搭載したことが仇になる。

夏場に空調装置の故障が続発し、冷房制御ができなくなった。

その応急策として、故障車両の運用では客室通路に氷柱・氷魂が入ったバケツを積んで走った話しがある。苦笑

その後の1992年から順次、空調装置は屋根上にAU402Kが搭載されるようになる。

※それまでに増備された車両が空調装置の搭載位置変更があったかは不明。

空調装置を屋根上に搭載する為、車体強度を見直しの上で補強措置が取られたのも同時期らしい。

最短編成は3両(2M1T)で、多客時は最大8両まで。

※設計上は電動車(M)が1両不動になっても走行できるようになっている、とか。

その後、中間車を先頭車化改造したり、設備更新・塗色変更や運用線区の変更を経て、

そろそろ現役車両も見納めだそうです。

 

日立評論の「9.結評」に旧国鉄関係者に感謝の意が綴られているので、やはり国鉄時代に783系の構想はあった・・・かもね。