いつも、この時期になると思い出すこと。
養豚場の横の小さな工場。場所は東京都立川市。
「立川」は立川でも「西武立川」。
今はどうなってるか知らない。駅の周辺には何もなかった。
当時は西国分寺のボロアパート住み。
仕事は人材派遣で早い者勝ち。
イベント準備や時給のいい短期の仕事はすぐに埋まった。
私にとって「穴場」だったのは機械を使う仕事。
時給はいいけど、ちょっと遠い。でも大体が月単位の契約だった。
電気だ、クルマだ、機械だ、と色々なものに携わった私にとって容易い仕事が多かった。
時給¥1250x8時間+残業代別途(時給の25%増し)
作業内容:鋼管・塩ビパイプの加工
交通費支給:なし
昼食支給・補助:なし
作業を覚えるのに時間は掛からなかった。相手は昭和末期のNC旋盤。
事前に所定の寸法に切っておいた塩ビパイプや鋼管パイプを2、30個、旋盤横に置いた。
塩ビパイプや鋼管パイプをチャックにくわえさせて、目視と治具で芯出し。
そして、もういちどチャックのネジを増し締めして、旋盤を軽く回して目視と治具で芯出し。
鋼管・塩ビパイプの直径や長さで切削バイトのチップを変えて、加工時間も変えた。
出荷先によって「粗削り」がOKなもの、1mmでもバリや傷があれば返品になるもの。
ネジを切らなければいけないもの。色々だった。
1週間で慣れた。朝は始業1時間前には養豚場から漂ってくる臭いと一緒に工場に居た。
塩ビパイプや鋼管パイプは毎朝トラックが持ってきた。
私が出勤する頃には荷下ろし待ちの平ボデーのトラックがいつも2台待っていた。
トラックのキャビンによじ登って仮眠中のドライバーさんを起こした。
あの、荷下ろしやりますよ。暇なんで。
鋼管パイプはフォークリフトのツメを、パイプの長さのど真ん中に差し込めばよかった。
問題は塩ビパイプだった。
初めのうちはパイプに印刷してあった型番に傷が入ったりして、クレームが来た。
大手建材メーカーに出荷する材料になるものもあり、塩ビパイプの荷下ろしはフォークリフトのツメ先にプラ段シートで作ったカバーを付けて慎重にツメを差し込むようになった。
そして、ツメを差し込んで塩ビパイプの束の奥まで届いたかな?の程度でフォークリフトのマストを手前にゆっくり倒して抱き込み、そのまま資材置き場まで運んだ。
夕方には集荷のトラックが来た。
加工済みの鋼管パイプは木製パレットに積んで、ビニールラップを掛けた。
加工済みの塩ビパイプは段ボールに詰めてプラ製パレットに3段積み。
しかし、旋盤は止めてはいけない。
加工時間わずか数分の間に、フォークリフトで出荷場とトラックの間を往復した。
雨の日の出荷は憂鬱だった。
出荷品は全て、ビニールラップで覆わなければいけなかった。
私は派遣社員で、工場の社員は社長含めて3人。
たった2人しかいない社員が、よく休んだ。
社長が注意したら「辞めます」が口癖だったらしく、社長は文句を言えなかったらしい。
今でも癖になっていること。
それは工場やその周辺を走るトラックの積み荷を見ること。
冷凍車やウィング車、コンテナ車は積み荷が見えないけど。
それから・・
私が幼い時の思いを灰色で塗りつぶすような、映画ができたらしい。
歌は、中島みゆきさん。「心音(しんおん)」。
鐵の街に育った私にとって、哀しかった。
でも、そんな時代だった。かもしれない。