時のすぎゆくままに

俗称:障がい者夫婦。上手くやれるわけないと否定された世の中を、なんとか、かんとか生きています。

30代の思い出と「心音(しんおん)」

いつも、この時期になると思い出すこと。

 

養豚場の横の小さな工場。場所は東京都立川市

 

「立川」は立川でも「西武立川」。

今はどうなってるか知らない。駅の周辺には何もなかった。

当時は西国分寺のボロアパート住み。

仕事は人材派遣で早い者勝ち。

イベント準備や時給のいい短期の仕事はすぐに埋まった。

 

私にとって「穴場」だったのは機械を使う仕事。

時給はいいけど、ちょっと遠い。でも大体が月単位の契約だった。

電気だ、クルマだ、機械だ、と色々なものに携わった私にとって容易い仕事が多かった。

 

時給¥1250x8時間+残業代別途(時給の25%増し)

作業内容:鋼管・塩ビパイプの加工

交通費支給:なし

昼食支給・補助:なし

 

作業を覚えるのに時間は掛からなかった。相手は昭和末期のNC旋盤。

事前に所定の寸法に切っておいた塩ビパイプや鋼管パイプを2、30個、旋盤横に置いた。

塩ビパイプや鋼管パイプをチャックにくわえさせて、目視と治具で芯出し。

そして、もういちどチャックのネジを増し締めして、旋盤を軽く回して目視と治具で芯出し。

鋼管・塩ビパイプの直径や長さで切削バイトのチップを変えて、加工時間も変えた。

出荷先によって「粗削り」がOKなもの、1mmでもバリや傷があれば返品になるもの。

ネジを切らなければいけないもの。色々だった。

 

1週間で慣れた。朝は始業1時間前には養豚場から漂ってくる臭いと一緒に工場に居た。

塩ビパイプや鋼管パイプは毎朝トラックが持ってきた。

私が出勤する頃には荷下ろし待ちの平ボデーのトラックがいつも2台待っていた。

 

トラックのキャビンによじ登って仮眠中のドライバーさんを起こした。

 

あの、荷下ろしやりますよ。暇なんで。

 

鋼管パイプはフォークリフトのツメを、パイプの長さのど真ん中に差し込めばよかった。

 

問題は塩ビパイプだった。

 

初めのうちはパイプに印刷してあった型番に傷が入ったりして、クレームが来た。

大手建材メーカーに出荷する材料になるものもあり、塩ビパイプの荷下ろしはフォークリフトのツメ先にプラ段シートで作ったカバーを付けて慎重にツメを差し込むようになった。

 

そして、ツメを差し込んで塩ビパイプの束の奥まで届いたかな?の程度でフォークリフトのマストを手前にゆっくり倒して抱き込み、そのまま資材置き場まで運んだ。

 

夕方には集荷のトラックが来た。

加工済みの鋼管パイプは木製パレットに積んで、ビニールラップを掛けた。

加工済みの塩ビパイプは段ボールに詰めてプラ製パレットに3段積み。

しかし、旋盤は止めてはいけない。

加工時間わずか数分の間に、フォークリフトで出荷場とトラックの間を往復した。

雨の日の出荷は憂鬱だった。

出荷品は全て、ビニールラップで覆わなければいけなかった。

 

私は派遣社員で、工場の社員は社長含めて3人。

たった2人しかいない社員が、よく休んだ。

社長が注意したら「辞めます」が口癖だったらしく、社長は文句を言えなかったらしい。

 

今でも癖になっていること。

それは工場やその周辺を走るトラックの積み荷を見ること。

冷凍車やウィング車、コンテナ車は積み荷が見えないけど。

 

それから・・

私が幼い時の思いを灰色で塗りつぶすような、映画ができたらしい。

歌は、中島みゆきさん。「心音(しんおん)」。

鐵の街に育った私にとって、哀しかった。

でも、そんな時代だった。かもしれない。

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