時のすぎゆくままに

俗称:障がい者夫婦。上手くやれるわけないと否定された世の中を、なんとか、かんとか生きています。

終戦記念日の朝

おはようございます。

本日は終戦記念日です。

今日のお昼は出かけているので、心の中で黙祷です。

 

先のブログにて「ヒロシマ被爆した日 8月6日 8時15分」を書かせて頂きました。

colors1971.hatenablog.com

8月9日はナガサキ被爆した日でしたが、書けませんでした。

というのも言い訳がましくなりますが、福岡・小倉の身代わりにナガサキがなったことで、今の私が生きているからです。

もし、福岡・小倉が被爆していれば、今の私は生きていません。

鐵をつくる溶鉱炉も、鐵を加工する工場もたくさん家の近くにありました。

1945年当時、私の祖父母は福岡の筑豊におりました。

産業に詳しい方ならご存知かと思いますが、筑豊という地域は昔は炭鉱町でした。

石炭が日本の生活を支えていた時代です。

祖父は石炭の採掘場の抗夫でしたが、粉塵にて肺を患い、休職としていた、とのこと。

そんな祖父にも1945年6月に赤紙(旧日本軍の招集令状)が届いたそうです。

 

1945年6月。それは旧日本軍と同盟国であった旧大ドイツ帝国が連合軍に、無条件降伏した翌月。そこから連合軍の日本への攻撃は激しさを増します。

祖父に赤紙が届いた日。祖母は泣いたそうです。

そして数日後に祖母は親戚の女性や子供たちと、祖父を見送ったそうです。

ですが、祖父は家に帰って来たそうです。

これは私の推測ですが、患った肺の症状が重く、「兵」としての任務に耐えられなかったのであろう。と。

そして、ヒロシマナガサキ被爆し、その情報を当時、祖父母が住んでいた長屋で近所の人と小さなラジオで皆で寄り合って聴いたそうです。

 

私は義務教育で戦争教育を受けました。焼け野原になった街を写した映写フィルムを何度も見ました。はだしのゲンは各巻が3冊ずつ、図書室にありました。

おそらく同じクラスのほとんどは、はだしのゲンを読んでいたと思います。

ですが、友達同士で戦争の話しをすることはありませんでした。

 

それは。

 

当事者ではないからです。

 

ナガサキが福岡・小倉の身代わりになったことは、大人になってから申し訳なさが積もりました。

福岡・小倉の上空が1945年8月9日に晴れていたら。

私はこうやってブログを書いていないでしょうし、妻と出逢う事、いろいろな方のお手伝いをすることもなかったでしょう。

青い空も、冷たい雨も、四季も、感じることはなかったでしょう。

 

ただ一つ言えることは。

人間が無情な欲を持たなければ、戦争はなかった。

「戦で勝つのが当たり前」でなければ、日本は「静和」だったのかも知れません。

 

まもなく日の出の時刻ですが、あいにく、台風の影響で空が見えません。

 

自らの意を表に出すことができず、自国である日本が戦争に勝つと信じていた皆様へ。

 

東向け!空へ!最礼!

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