時のすぎゆくままに

俗称:障がい者夫婦。上手くやれるわけないと否定された世の中を、なんとか、かんとか生きています。

路面電車廃止■■■バス代替輸送で輸送力を保つ■■■

これは福岡県北九州市を走っていた『西日本鉄道 北九州線(支線含む)』のお話しです。

  • 1980年(昭和55年)11月1日 北方支線(魚町~北方間)廃止
  • 1985年(昭和60年)10月20日 戸畑支線(大門~日明~幸町~戸畑間)・枝光支線(幸町~枝光~中央町間)・北九州本線の一部(門司 ~砂津間)廃止
  • 1992年(平成4年)10月25日 北九州本線の一部(砂津~ 黒崎駅前間)廃止
  • 2000年(平成12年)11月26日 北九州本線廃止(黒崎駅前~折尾間)

 

まず北方支線の廃止ですが、現:北九州高速鉄道(通称:北九州モノレール)が小倉駅前(現在の平和通り交差点)~企救丘間の新交通システムを目論んでの廃止に至りました。が、1985年(昭和60年)1月9日:小倉線開業(小倉駅前~北方~企救丘)と5年遅れ。

その間北方支線の廃止から北九州モノレール小倉線小倉駅前~北方~企救丘)の開通までの代替を担っていたのはバスです。※当時は波動用(予備車)のバスでしのいでいました。

北方支線は狭軌(1067mm)で道路との併用軌道が多く、道路自体も軌道部分を除けば当時の普通車幅の車両が行きかう狭隘路でした。

 

一方で北九州線は標準軌(1435mm)で、ラッシュ時には2両連接車・3両連接車(筑豊電気鉄道2000形との相互乗り入れ)があり、戸畑支線・枝光支線は当時の八幡製鐵所や協力企業、日本水産明治製菓などの通勤の足として利用されてきました。

しかしながら、沿線の道路事情は悪く、団子運転やバス路線の経由地との重複もあり廃止となりました。

 

当時の面影を振り返りますが、なんといっても凄かったのは運転形態です。

【運転系統】※最盛期

北方支線 魚町~北方

北九州線(戸畑・枝光支線含む)

門司~砂津~大門~到津車庫

門司~砂津~大門~到津車庫~中央町~幸町~戸畑

門司~砂津~大門~日明~幸町~戸畑

戸畑~幸町~枝光~中央町~八幡駅前~黒崎駅前~折尾

戸畑~幸町~枝光~中央町~到津車庫

門司~砂津~大門~日明~幸町~枝光~中央町~八幡駅前~黒崎駅前~折尾

門司~砂津~大門~到津車庫~中央町~八幡駅前~黒崎駅前~折尾

八幡駅前~黒崎駅前~楠橋・筑鉄香月・筑鉄直方

幸町~枝光~中央町~八幡駅前~黒崎駅~楠橋・筑鉄香月・筑鉄直方

砂津~大門~到津車庫~中央町~八幡駅前~黒崎駅前~楠橋・筑鉄香月・筑鉄直方

砂津~大門~日明~幸町~戸畑

砂津~大門~到津車庫~中央町~枝光~戸畑

など。

 

※車両の向きは関係なかったようで、どの車両の前頭部にも『連結棒取り付け器』が

ついていました。

 

北方支線は廃止後の代替バスの確保が出来たと思うんですが。

問題は、北九州本線(門司~砂津・戸畑支線・枝光支線)の部分廃止でした。

廃止すれば、道は広くなる。

 

で、突貫工事で打って出たのが、『とりあえずレールを埋めよう』でした。

廃線記念電車が走ったあと、続々と工事が始まりました。

翌朝までにレールがあった場所にアスファルトを盛って固めていたのです。

 

もちろん専用軌道もありましたが、そこは『バス専用道路(今でいうBRT)』にしようというもの。半年後~1年後くらいには完成したと思います。元専用軌道の『電停』を『バス停』に替えて、用地買収を極力控える動きもありました。

 

それで、あとは代替バスの路線体系です。

線路を埋めたおかげで、片側1車線の道路が2車線になった。(上り・下りで4車線)

なので『急行便(戸畑~門司・田ノ浦線、小嶺・黒崎~中央町~砂津線など)』ができたりしたんですね。

電車の車庫跡地はバスの営業所(車庫)へ早変わり。

それで、足りなくなったのは『バス』。

車体メーカー(私の元バイト先ですが)には代替バス向け100台超の発注があったとか。

 

それが、イラストのバスです。中型車幅を大型車長さまでシャーシを伸ばして、輸送力を保とうとするもの。

私たちの間では『胴が長いから、ダックスフントみたいだなー』なんて。

そして、中型車ベースなので車高が低いですから、ワンステップ化して『車いす用スロープ』をつけることに成功したわけで。

 

今は『ノンステップ標準車』のバスをよく見かけますが、当時の車両価格は1200万だった・・・かな。笑

※今の『ノンステップ標準車』はサスペンションがエアサスなので高いのは分かりますが。。。